問題はゴスペルを「名乗る」こと/日本ゴスペルについて

TrueGospelornot

ゴスペルを歌うことは自由な音楽表現です。しかし、ゴスペルを「名乗るかどうか」については、「本物が存在しているため」、異文化に対する敬意を払う必要があります。

音楽を純粋に愛し奏でる者として、私たちはこれからもゴスペルを歌い続けることになんの問題も持っていません。

ただ、ゴスペルグループやゴスペル指導者を「名乗る」ことや、ゴスペルでない楽曲をゴスペルと呼ぶことは、音楽的に、また、国際社会において、大きな問題を孕んでいます。

ゴスペルに限らず音楽ジャンルには文化が伴い、その文化への敬意を損ねれば、その音楽の最も重要な部分を学び損ねることになると同時に、そのジャンルの高みにいるアーティスト達との交流が不自由なものとなります。

例えば、民謡を間違って演歌と呼び続けたまま、民謡歌手達と音楽家として交流することはできません。まして、意図的に呼び間違えていることなどはもってのほかと考えられるでしょう。

英語圏では、「ゴスペルグループ」や「ゴスペル指導者」「ゴスペルシンガー」と言ったら、例外なくキリスト教活動をする人や団体を指します。それは宗教観や敬虔さの問題ではなく、言語の問題です。ヒンズー教徒やイスラム過激派のような人々も、ゴスペルグループと聞けばそれが当然キリスト教団体だと考えるでしょうし、ゴスペルイベントと聞けばキリスト教関連のイベントだと考えるのは、英語圏において当たり前のことです。

日本では主に商業的な理由で、「宗教活動だと思われたくはないがゴスペルグループやゴスペル指導者を名乗る」という状態が続けられてきました。あたかも、「天皇家と血縁があると思われたくないのに皇族を名乗っている」ことに例えられるでしょう。それは単純に文化的教養を欠いた行為であり、実際にそれである方々との間でトラブルになるか、良くても「何もわかっていない人たちだ」と思われてしまう行為です。

また、例えば、ソーラン節は北海道の漁師たちが作業にあたって歌った仕事歌です。その歌を今日、私たちは自由に歌えますし、魚を取らない私たちがそれを歌ってもそれに異を唱える人もいないでしょう。しかし、魚を取ったことがないのに 「私たちはソーラン節を歌っているから漁師である」と、主張する人がいたら、その論理に賛同する人はおそらくいません。

アメリカでは巨大市場であるゴスペルミュージックのアーティスト達は、キリストの福音を伝えたり感じたりするためにその音楽を作り出しており、当然、対外的にそれが聖書に基づく(=宗教的な)活動だと思われることに自覚や誇りがあります。その精神性の上に凄まじい音楽的な発展があるのです。

一方日本では、90年代から2000年代にかけて「ゴスペルブーム」の恩恵を受けるために、宗教活動とは思われたくはない音楽教室や指導者も、こぞってゴスペルを名乗りました。結果として、歌うことへの抵抗が捨てきれずにゴスペルをやめる一般の学習者や、確信のないまま生業のためにクリスチャンになり結局教会に通うわけでもない指導者などを産み、そのことが、文化的に深みのあるゴスペルの発展を阻害し、ひいてはゴスペルブームの衰退を招いてしまった可能性が強く考えられます。

私たちパワーコーラス協会は、日本での地声コーラスの発展のためには、「ゴスペルグループ」「ゴスペル指導者」といった言葉は、本当にそれである方々、すなわち、キリストへの信仰をお持ちでその活動をされる方々にきちんとお返しし、異文化への敬意を取り戻す必要があると考えています。それはまた、私たちが国際社会の中で本当のゴスペルミュージシャン達の前に自分を隠さずに立ち、彼らから多くを学ぶために必要な態度でもあります。

「しかしそうすると、宗教活動ではないが、ゴスペルのようにかっこいい地声コーラスを目指してゴスペルや J-pop や洋楽やオリジナルなどを歌っているのに、その活動に名前がつけられなくて困る」という方々に「パワーコーラス」というジャンルを名乗ることを、当協会では提案しています。